彫刻のまち、井波
5月10日
いよいよ、今回の富山滞在も最終日。
午前中は、今日も家で本読んだり甥っ子と遊んだり。
結局、アルペンルートも断念したし、観光っぽいことあんましてないな。
ということで、姉が隣の隣の隣の隣町くらいの、井波というところを案内してくれることに。
井波は、3日のよいやさ祭りで、神輿を担いでまわったまち。
日本遺産に登録されているところがあるようなまちだそうだけど、神輿担ぐのに必死で、景色とか見てる余裕なかった。
ちなみに、後から聞いた話、あの神輿の重さ、1トンあったらしい。
そりゃ全身痛くなるわけだ。
姉の運転で井波に向かう。
道中「逃げ水」という蜃気楼を数回見た。
路面に黒い水たまりのようなものが見えるが、近づくと消えてしまう。
姉の運転する車に、20分ほど揺られて到着。
1390年に瑞泉寺っていう、結構大きいお寺が建立されて以降、門前町として栄えた。
らしい。
瑞泉寺に続く、井波のメインストリート「八日町通り」
井波は、彫刻のまちとして有名らしく、まちのあちらこちらに彫刻が見受けられる。
表札も
看板も
公衆電話も
みーんな彫刻。
斎賀邸
昔の姿がそのまま残されてるらしく、井波で日本遺産に指定されてるもののうちの1つ。
※「そのまま」といっても、なかは博物館チックになってたり、テナントが入ってたりする。
「名古屋城の本丸御殿の欄間も、井波彫刻なんですよ〜」って、地元の観光ガイドのおじさんが誇らしげに話してくれた。
奥には立派な蔵が。
扉が分厚い。
蔵というよりも、金庫の扉。
中に入ると、Tシャツにトレーナー着てても肌寒い。
クーラー入れてんのかってくらい。
この辺の蔵の床下は、土むき出しのところに石置いて、その上に木のツカっていうのが普通らしいけど、ここは仕事が丁寧。
漆喰と土混ぜた床に、石敷き詰めて、さらに石のツカで支えている。
相当大事なもの入れてたんだろうな。
おじさんも、何を入れてたかは詳しく知らなかった。
井波は、周辺の中でもいち早く下水道が通ったという。
下水道工事の後の床はこんな感じでコンクリートで固めてしまうのが手っ取り早いが、斎賀邸は違った。
石畳の石1つ1つに、亭主自ら番号を振って、下水道工事後、元通りの石畳に戻したという。
意地と執念を感じる。
二階に上がると、和室が何部屋か。
書院造りとか何造りかはわからなかった。
日本史とかちゃんと勉強してれば、もっと楽しめたんだろうなと後悔。
欄間の彫刻が見事。
木彫り職人の間でも、「欄間が彫れれば一人前」と言われているくらい、欄間の彫刻は繊細。
八日町通りにある彫刻店は、多くが外から彫刻作業の様子が見れるようになっている。
勝手に見れるようにって言ってるけど、もしかしたら単に明るいところで作業しているだけかもしれない。
中にお邪魔させてもらうと、ふわりと木の香りが。
甥っ子がグズって軽く泣いちゃったけど、職人さんは微笑んでこっちを見てくれてた。
八日町通りを進んだ先、正面に瑞泉寺の入り口がある。
瑞泉寺は、過去三度にわたって焼失しており、その再建のために派遣された京都の職人が、彫刻の技術を持ち込んだことをきっかけに、井波は彫刻のまちとして栄えることになった。
瑞泉寺の山門
細部まで、見事な彫刻がほどこされている。
彫刻職人の間では、「迷ったら瑞泉寺を見ろ」と言われているそう。
こことか、近づくまで全部鉄だと思っていた。
雲水一匹龍
1879年8月1日、本堂から出火した際、この龍が水を吐き出して、延焼を食い止めたという言い伝えがある。
本堂
彫刻〜。
印刷物でよく見るこの図柄も、手彫りだと少し温かい印象。
本堂から隣の「太子堂」に続く廊下。
藤棚のスミレが綺麗に咲いていた。
下のベンチで一休みしようと思ったが、クマンバチがうじゃうじゃいたのでやめた。
1762年の大火の後延焼を食い止めるために造られた、石の防火壁。
帰って、夜からは昨日急遽開催していただくことになった送別会へ。
家の前がめちゃくちゃライトアップされていた。
ズームしないとわかりにくいかもしれないけど、その奥の人影があるところで、焼肉をいただいた。
目立つし外から丸見えで、ちょっと恥ずかしかった笑
でも、ご厚意に感謝。
準備から片付けまで、何から何までやってくださった。
家に帰って、蚊帳はって寝袋を閉じる。
こうやって寝るのも、今日が最後か。。。
なんて物思いにふける間も無く爆睡。
たぶん美味しくてロックでガブガブいってた焼酎がきいた。